久々にカンゲキ

avecビーズ『ゴーシュの夜の夜〜avecビーズバージョン〜「宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』をミステリにする試み」』を観に行ってきた。
作は北村想。演出も、そう。
生で北村演劇を観た覚えは無いが、ビデオではちょっと観たし、戯曲も読んだ。


楽しみにしてると、特異なアナウンスのあとダンスで始まる(どうもあの曲が気になる)。
セロ弾きのゴーシュという題材と、人形劇のホールでやるということで子供も楽しめるようなもんかなと予測していたら、いやはやまったく、ここまで考察、思想をぶち込んでくるとは思わなかった。
笑えるところは笑えるのだが、それが本筋を邪魔しないどころか、もう・・・。


しかし、毎度思うが、このヒョウヒョウとしたセリフ回しが好きだ。
帰って本(この劇の台本)を読んでみたが、流れるように書かれている。
つまるところがない。無駄が無いかどうかは僕にはまだ分からない。


セロ弾きのゴーシュをどうミステリにするのか、ということは誰もが思うだろうが、そのテーマは全くアイデアで終わっていない。
賢治をえぐり、想さん自身をも掘り下げている。
空については分かり切ら(正確には「れ」)なかったが、その鋭い読み解きに驚いた。
芝居(劇中劇とその役者)、映画(加島)、小説(如月)、観客・読者を通して、多角的にみている。
確かにゴーシュは簡単な話(セロ弾きの若者がいろいろあって成功するという筋)のように思えるが、実際なんのことやらわけわからん話だ。
そのことにもいままで気付かなかった僕だ。
驚愕の連続だった。


...(書きたいこといろいろあるがまとまらないので中略)


「世界は私の表現であり、私は世界の表現である」

うまく説明できないのだが、劇中からのこの言葉につきる。
と、思う。