捨てる作業

WSであった。


未だ立ち稽古に慣れることができず、体の動きに注意する(意識を注ぐ)ことがなかなかできない。
演技は意識を分散させつつ集中しなくてはならない(言葉、セリフ、体など、それぞれを意識しつづけなければならない)ので、気を抜くと崩れてしまう。
台本を引き離してやっている分、体への意識は注ぎやすい。
と、台本(セリフ)を読まない分、その時その時の状況に身を置きやすい。


劇が出来上がっていく様子を肌で感じられて非常に興味深い。
演出のアドバイスに従い修正され、変わっていく。
このアドバイスに従い自分の演技を修正していく作業も、また面白い。


稽古の前に行った『なまずさん』。
これには表現にとって大切な理性からの解放、つまり羞恥心を捨てることが盛り込まれている。
簡単な作業だが、ソレを再認識させられるのだ。
なまずさん」と大きな声で口に出しながら、体を自由に動かし(しかし体に注ぐ意識は保つ)、一定の距離歩く。
これだけ。
しかし実際は難しいモノである。
コレに対して抵抗のある人は、表現に形から挑もうとする。
あるいは、ヤケクソになってしまう人、コレも意識が集中しない。


以前誰かにも話したが、自分と向き合えないことには、自分を認め自覚しないことにはこの理性(羞恥心など)というものははずすことができない、と思う。


最近分からなくてムズムズする(もどかしい)のが、「表現の上での感情の位置づけ、役割」である。
僕は表現には感情が関わらないほうがいいと思っていた。
それは理性の基準で判断してしまうと考えたからだったが、はたして感情は理性だけに組み込まれているものなのだろうか?違う気もする。
で、根底に感情がある、感情から発生したモノは避けるべきだ、と考えかけたが、やはり感情の定義が曖昧である。
一般的には感情と理性は別だというが、僕は大半の感情は理性の上で社会的判断に伴い起きていると思う。


・・・だから理性的な議論なんてものは存在しないのだ・・・


センセに相談してみるもよし、か。
明日ガッコで訊いてみるかな。