シュ都参詣 前編

*数回にわたって東京特集お送りしています。



やってまいりました、東京は六本木、国立新美術館

お目当てはもちろん、現在絶賛開催中、花のパリよりシュルレアリスム

見終えまして一言。

「すばらしい ブラーヴィ!」




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時間が来て中に入っていくと、

ツァラの『ダダ宣言1918』からの抜粋が壁に掲げられ、僕らを待ち受けていた。



1 ダダからシュルレアリスムへ 1919-1924


この章では文字通りダダからシュルレアリスムへの転換期を主題としてあった。
ダダの絡めかたが少々乱雑(とってつけたよう)だったが、それがかえってダダらしい。
しょっぱなからエルンストが眼に飛び込む。
スゴイ、生だ。
コラージュ作品『解剖−花嫁』はダダ時代のものだろうが、既に(巌谷國士氏の言う)”謎の謎”を我々に問いかけている。
が、この時期のコラージュは、後の『百頭女』などに代表されるソレとは、少し造りが異なるようである。
この『解剖−花嫁』は徹底的なデペイズマンでは無いのだ。
そして今回大きく取り上げられている『ユビュ皇帝』。
建造物と人物が融合したような、あるいはコマのような、おそらく皇帝が、荒涼とした砂漠に深緑の影を落としている。
この絵画のタイトルの元となった『ユビュ王』はフランスの作家アルフレッド・ジャリの戯曲作品で、当時シュルレアリストに絶賛されたらしい。
読んでみたいが、売ってない、無念。
図録の解説によれば、この絵画は、幼年期に見た夢への解釈、ということらしい。
ここに書くと長くなるので書かないが・・・うーむ、なるほど。
ダダ時代から夢を主題に組み込んでくるあたり、エルンストは先鋭的だ。
一方デ・キリコ、『ギヨーム・アポリネールの予兆的肖像』『二人の人物』『ある午後のメランコリー』、この三つの作品が展示されていた。
『〜予兆的肖像』はデ・キリコにしては一風変わっていると思う。
他の二作はデ・キリコではおなじみの要素(たとえばマネキン風の人物、極端なパース、煙をあげる機関車)があるが、この絵にはソレが感じられない。
ちなみにギヨーム・アポリネールというのは”シュルレアリスム”という言葉を編み出した人物。
この『〜予兆的肖像』では奥の壁に隠れた、影の人物がアポリネールなのだそうだ。
一見すると手前のサングラスをかけた石膏像がそうだろうと思ってしまう(実際僕も解説を読むまでそう思ってた)、非常にまぎらわしい作品だ。
この作品には面白い逸話がある。
アポリネール(何度も言うが、奥の影だ)の顔部分に弧が描かれている。
この弧が、後にアポリネールが顔面に怪我をすることを予言していたというのだ。
”予兆的肖像”というのも、アポリネールが傷を負った後にこの絵画を神格化し付けたタイトルだろう。
ちなみに、デ・キリコはダダではなく、形而上絵画という枠組みだ。
そしてここに、もろにダダ臭いデュシャンの『瓶掛け』が吊るされてあった。
いや、ダダについて書かれた本に、必ず写真付きで登場したこの作品を生で見てテンションが上がらなかったこともないが・・・。
レディメイドの産みの親・デュシャンの制作した最初の純粋なレディメイド、とみなされている作品らしい。
レディメイドといえば、国立新美術館の前に立ち寄った(といっても外観しか見てないが)森美術館の壁の一部に『泉』があったのには笑った。

他に、マン・レイの写真作品とピカビアの絵画が展示してあった。
マン・レイの『ホコリの培養』はデュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)』の一部を撮影したもの。
マン・レイにはダダの記録写真家としての側面もあった。
もうひとつ、『ミシンと雨傘』は、ロートレアモン伯爵・著『マルドロールの歌』の中の言葉、〈解剖台の上でのミシンと雨傘の出会いのように美しい〉を写真化した作品だ(しかしこの写真では手術台では無い)。
この〈解剖台の上で〜〉という言葉は、文学におけるデペイズマンの先駆としてシュルレアリストたちによって称賛された。
ピカビアの『美徳』という作品は、ダダの時代、いわばピカビアにとっての「機械の時代」を感じさせる作品だが、どこかそれとは雰囲気が違う。
ピカビアの「機械の時代」の作品は結構好きなので、面白かった。


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ダダの資料が陳列されたガラス・ケース。
それを通り越すと曲面の壁が現れ、その表面には『シュルレアリスム宣言』からの抜粋が書かれてあった。



2 ある宣言からもうひとつの宣言へ 1919-1924


シュルレアリスム宣言』か・・・、〈シュルレアリスム。男性名詞。〉というところにはいくらか賛同できるが・・・。
実を言うとブルトンはあんまり好きじゃない。
(また、オートマティスムに関してもあんまり好きじゃないので、そこは容赦していただきたい)
この部屋、ブルトンの写真が飾ってあんのよ、何枚も。
だから、ね、そこ抜けたらサ、まーたダダの資料があって(訳文なんてついてないから読めねーっての)、その奥に大部屋がある。
その部屋こそ今回結構注目してる、映像作品(もしくは映画)の展示?室。
マン・レイの『ひとで』、ルネ・クレールの『眠るパリ』、の2作品が上映されていた。
『ひとで』については映像の羅列なので意味はよくわからない(字幕無いしね)。
この作品は去年のマン・レイ展でも上映されてたらしい。
『眠るパリ』は、気持ちが急いていたので全部は見なかったが、アイデアが面白かった。
時が止まる装置でまさに”パリが眠る”のだ。
すべての動きが止まり、老科学者と、若い男と女とだけが動いてる様子はユーモラスだ。
時が止まっているのをいいことに、若い男はスリをはたらこうとするが、科学者が装置で時間を元に戻してしまい、現行犯で逮捕となる・・・。
この老科学者と若い男女との関係がいまいち分からなかったが、ツクリがうまく、時が止まる瞬間などは感嘆の声をもらす程。といっても過言でないかもしれない。
お次は「内的なモデル」というコーナー。
マッソンの初期作品が多く展示してあった。
マッソンというと激しいタッチのイメージがあったが、ソレに対しここにある作品(『林間の空地』『室内の男』『四大元素』『獲物』『採光窓』)は力強さはあるものの、やわらかい感じ(印象派チック)だった。
また、これらの内の幾作品かがキュビズム的であることもさることながら、『獲物』における肉体の描き方は、オートマティスム的であると同時にどこかピカソを感じさせる。
かなり傾倒してたらしいね。
マグリット、今回は知らない作品が多くて面白い。
『旅の想い出』『秘密の分身』、この二つの相似点は切り抜かれた人体、ということだ。
しかし、『秘密の分身』は『旅の想い出』に比べて、その人体の立体感が曖昧になっている。
目や耳などを見れば平面を切り抜いてあるように感じる、しかし薄い断面を見ると立体なのだ。
強い影による写実的リアリティ、それに対し切り抜き方はその画布を裂くようで・・・コレが混乱を招く。
絵画表現に対する懐疑・・・というのは考え過ぎか。
珍しいマン・レイの絵画があった・・・といっても元々はマン・レイも画家志望。
『サン=ジャン=ドリュズの夜』『森の中の工場』、どちらも、なんだかアフリカ美術を感じさせる。
『森の中の工場』、バックは木の生い茂る山肌だろう・・・一番手前の無造作な線は女性の肉体を彷彿とさせる。
すると中央の建物のようなモノは・・・ある種のシンボル・・・。
人工物と自然との対比・・・。
こちらにあるピカビアの絵画は、先の”機械の時代”とは全く異なる作風で、なんだか神話性を感じる。
『ル・シルレ』は”怪物の時代”、『スフィンクス』は”透明の時代”、と分けられるらしい。
神話性(?。聖性?)を感じるのは、これらの作品が古典絵画や古代彫刻からイメージの引用をしているからか。
『ル・シルレ』は分からないが『スフィンクス』というタイトルは神話の中からきているだろう(おそらくこのスフィンクスはエジプトの守護神ではなくギリシャ神話の女神だ)。
いよいよ来ました、今回大注目、ヴィクトル・ブローネルの登場。
そりゃもう、いったら大興奮ですよ。
他の来場者の中から、「いろんな画家が混ざったようだ」という声が聞こえた。
確かに、ダリっぽくもあるし、デ・キリコの要素も含んでいるし・・・
しかし、この幾何学的かつ生物的形態はブローネルならではだろう。
このイメージはどっから出てくるのだ。
・・・いやいやいや、ダリとは全然違うよ、コレは。
『空気の威信』はどこか数学的なイメージだ。
ロボットのような、しかし肉感的な人型と、血の気はあるが生命を感じないような四肢が奇妙な具合に合わさっている。
しかし影の中ではそれらが統合されていて、一人の人間の影としか見えない(さらにいえば影の中では、実体と細かい部分が異なっている)。
また、岩と球が棒で繋がれたようなモノ、窓から少しだけ見える建物の中、ロボット様の金属面に映る奇妙な形態などが我々の空想を掻き立てる。
『夢見る街』では建造物のようになっている手と、手前の人物の手が同じ方向を指しているのだが、コレもなにやらイメージを膨らませてくれる。
『モティーフについて』では目や鼻から筆がのび、絵を描いている。
イメージと感覚の関係を表しているのだろうか?
ちなみに・・・デ・キリコの『〜予兆的肖像』ではないが、ブローネルの絵画にも、未来を予言していた、という逸話が残っている。
他に、柔らかいタッチと単純な形態が不思議な世界を描くジョセフ・シマ(『二重の風景』『正午』)、ユーモラスなレリーフ作品のジャン・アルプ『口ひげ頭と瓶』、イヴ・タンギーの『夏の四時に、希望』などがありました。
お次は「甘美な死骸」のコーナー。
「甘美な死骸(優美な屍骸とも呼ばれる)」というのは、〈―紙を折りたたみ、複数の人間が、誰もお互いに協力し合うことができないままに、一つの文、もしくは一枚のデッサンを造らなければならないという遊び。この名前のもとになった、古典的と言える作例は、このやり方で作られた最初の文にようやくされる。「甘美な―死骸は―新しい―ワインを―飲むだろう」。〉、アンドレ・ブルトンに言わせればこういうことらしい。
これは完成された作品を産むための技法ではなく、トレーニングのための手法と解した方が適当だろう。
さて、「自動筆記(オートマティスム」のコーナーです、ええ。
まずミロですね、おなじみ、オートマティスムによる自由な線の組み合わせに着彩。
自動筆記の嫌いなとこ・・・修正・編集してるとこ・・・。
マッソンのは別の意味で疑問に思うよね、具象が多大に絡んでるからね。
でもマッソンのほうはいくらか好きだよ。


その奥の部屋にはシュルレアリスムの資料のコーナーがありました。

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〈畳の上でのチケットと図録の出会いのように・・・〉


つづく